脳死=死なのか:医学的判定の問題:全脳死か脳幹死か高位脳死なのか

 

 それぞれの脳死判定基準を見てまず気がつくことは、前述したように判定すべき目標自体に差があるということです。つまり、同じ脳死といえどもそれがアメリカのそれや日本がめざすような全脳死を指しているのか、それともイギリスのような脳幹死をさすのかがまず違っているのです。判定すべき目標自体が違っていれば、その方法に差が出てきて当然ですし、それを無視して判定基準同士を比較しても何の意味もないのはあたりまえです。しかし脳死のさす中身の違いについての議論は後段にゆずるとして、ここでは医学的判定自体についてます検討してみましょう。

 とりあえずイギリスのものは別に置いておいて、アメリカと日本の脳死判定基準を比べてみると、日本の方が細かく定められているものの、全体としては(Iバード大学医学部の基準に準して、①深昏睡、②無呼吸、③脳幹反射消失(瞳孔散大をふくむ)、④平坦脳波の四つの部分に分けられることがわかります。①深昏睡は脳幹網様体上部の障害を、②無呼吸は脳幹下部にある呼吸中枢の障害を、③脳幹反射消失(瞳孔散大をふくむ)は文字通り脳幹機能の障害を表しています。つまり①~③までは脳幹機能をチェックするための項目というわけなのです。一方、④平坦脳波のみが大脳の機能をチェックする項目ということになります。脳幹死を脳死と考えるイギリスで脳波が必須とされていないのはこのためです。

 それではこの①~④ぎでの項目で全脳死を判定することは可能なのでしょうか。答えは否です。なぜならば「平坦脳波は大脳皮質の機能停止を証明するとしても、大脳深部の視床大脳基底核視床下部等の機能やまして小脳の機能の停止を証明するものではない」からです(植村研一「脳幹死をもって人間の死と定義すると明言すべきである」、『厚生』、一九九〇・六、二四一二五頁)。

 脳外科医の植村が言うように、そもそも医学的にも「全脳死を完全に証明することは至難の技」なのです。大脳部分は容積的に見ただけでも脳幹部の何倍もの大きさをもっていて、機能的にも複雑で未解明の部分が非常に多いところです。その部分の機能停止をただ平坦脳波だけで判断するのはあまりにも荒っぽすぎるのではないでしょうか。そのうえ「全」脳死という意味では、①~④までの項目では大脳基底核視床下部・小脳部分などの機能についてはまったくチェック出来ておらず、概念的にも不十分なものになっているのです。

 脳死問題は結局、徹頭徹尾、人間観の選択の問題にほかなりません。そもそも脳死=「人の死」という考え方は、脳(あるいは脳機能)が人間にとってもっとも大事な臓器(あるいは働き)だという人間観があってはじめて成り立つものです。そしてその選択は医学的な言述のなかから論理的必然として出てくるものではなく、その人のもつ世界観・人間観の反映でしかないのです。

 たとえば、生物にとっては呼吸こそ一番重要な機能であり、だからこそ蘇生はまず呼吸確保からおこなわれるのだと言ったり、あるいは真の有機的連係は、酸素や栄養などの物質代謝をつかさどる循環にこそあるのだと言ったり、医学的な言葉による人間観の表明はいくらでも可能です。だからといってその中からどれを選択するかは、あくまでもどのような人間観・世界観を望むかといった質的な指向性のなかにあるのであり、決して医学的に答えの出る問題ではないのです。

 立花隆がこだわっている機能死か器質死かという選択の問題も、同様に人間観の問題です。立花が器質死に執着するのは、米本が指摘するように非常に日本的なディスクールの中でのことと思います。

 欧米においては「中枢神経系の活動を人間存在そのものと同一視する哲学が存在」しており、「徹頭徹尾、中枢神経系の機能とその停止にのみ関心を集中させ、その消滅をもって人間存在の消失と見なす哲学に立つことを強要」しています。これに対して立花は脳死を死として選択するものの、あくまでもそれは病理学的に示されるような器質的なものでなくてはならず、機能面だけでの評価では不十分として判定規準批判を展開しているのです。

 しかしこの器質的なもの、物質的な証拠へのこだわりは、立花だけではなくて、日本の一般的な臨死場面でも同様によく認められることだと思います。よく言われることですが、日本では患者が亡くなる時、意識の有無にかかわらず親族が死に目にあえることの重要性が非常に強調されています。親族が死亡宣告の時間に間に合うように、その到着まで長時間にわたって心臓マッサージをおこなったなどという話は、よく聞かれるエピソードです。日本では、意識の有る無し、別れの言葉の有る無しにかかわらず、脈の有るうち、体の温かいうちに側に居られるかどうかが重視されてきたのです。

 一方アメリカでは、重要なのは意識のあるうちにみんなに別れのあいさつが出来るかどうかという行為の完了にあって、死亡の場面での列席そのものはあまり意味をもたないように聞いています。別れの行為が完了しているならば夜間に患者が亡くなっても、日本のように夜中に電話を入れたりせずに、朝になってから咋晩お亡くなりになりましたと知らせるぐらいであるとのことです。

 この違いはおそらく、日米の文化による世界観・人間観の違いとしてしか説明できないのではないでしょうか。少なくとも、いくら立花が器質死判定の重要性を訴えたとしても、そもそも目的としているものが違うのだから、機能死判定で十分とする欧米の論者たちを、日本で出来たのと同じようには説得することは無理なのではないかと思うのですが、みなさんはどう思われるでしょうか。


 さらにこの選択の問題は、全脳死か脳幹死かという脳死の中身の議論にまで及んできます。中枢神経系全体を平等に重要なものととらえる全脳死と、イギリスのように脳の中をさらに差異化して生命の維持に必須たる脳幹部のみを重視する脳幹死との間にも、やはり人間観の選択の問題があるのです。

 そのうえ最近のアメリカでは、R・ビーチなどの生命倫理学者を中心に、意識、思考、社会的相互作用こそが人間としての本質的機能と考えて、ほぼ大脳の障害に当たるような高次脳中枢の死、すなわち高次脳死(high brain death)という新しい脳死の考え方が強くなってきています。この考え方などは脳幹死の考え方の対局にあるものですし、従来では脳死とされなかったいわゆる植物状態の患者が今度は積極的に脳死とされるという物凄いものです。こういった人間観の是非は置くとしても、アメリカ的多元主義はこんな選択肢までも作ってきているのであり、人間観の選択の問題をしっかり議論せずに、医学的な問題だけで片付けることは到底無理なことだといえます。

 高次脳死の概念をさらに一歩前に進めているのが、H・エンゲルハートに代表されるパーソン論です。

 かれによるとパーソン論とは人格という、道徳的行為者としての理性的、合理的対応能力で人間の間に格差を作ろうという考え方です。行動の自由のある成人を「自由な人
格」とするものの、未成年者や年季奉公の召使、軍隊の隊員などは一段落ちた「他人の所有下にある人格」と見なされます。さらに乳児やひどい知恵遅れの人、重度のアルツハイマー病患者は厳密な意味での人格には入らないが、その生命が苦しむ能力をもち、他の人格にとって重要である場合にかぎって「社会的配慮からする人格」たりうるというのです。重度欠損新生児にいたっては、厳密な意味での人格である人びとに不当な経済的、心理的負担をかけないかぎりにおいて保護に値するに過ぎません。

 このように最初から自由と健全な能力に恵まれている者の幸福を基礎とした、いかにもアメリカ的ヒ壬フルキカルな人間観がパーソン論であり、その中で判断力上の弱者は不完全な人格のもち主として功利主義の枠の中で負担にならない場合のみ保護の対象たりうるというのです。そしてここでも、大脳は人格の存在の必要条件であるがゆえに、大脳の死=人格の死となってしまいます。人格の名のもとに大脳の能力が絶対化され、ここでは新たな優生思想へと変化していっているのです。

 このパーソン論もやはり論理的には一つの人間観の選択であり、われわれ日本人にはもっとも感覚的に受容し難い類の考え方です。しかし、アメリカにおいてはさすがに少数ではありますが、一定の影響力をもっている考え方であることも事実であり、ある程度注意を払っておく必要はあると思います。

 しかしとにかく、脳死という人間観を選択することは、必然的に「脳」第▽王義の風潮を生み出し、人間観を高次脳死からパーソン論の方へと変容させてくる可能性をもっているのです。このことについてわが国での脳死論者は、気付いていないのか秘匿しているのか、あまり明らかに議論されていない部分です。脳死=「人の死」とすることが、かならずしも「進歩的」というばかりではないということを、肝に銘じてもらいたいと思います。