胚操作とキメラ生物

 高等動物の一生は卵子精子が合体してできる受精卵から始まる.それが細胞分裂を数多く繰り返したのちに胚子(embryo)となり,それが発育・孵化して自立生活を始め,成長して新たな生殖を始める.こうして遺伝子を次世代へと次々に伝えてゆく.受精卵から始まって動物個体が発生してくるまでの過程を研究する学問分野を発生生物学と呼び,そのうちとくに生殖現象を扱う分野を生殖生物学と呼ぶ.近年発展してきたこれらの学間分野においては胚操作技術が大きな役割を果たしてきた.

 

 1950年代にはすでにマウスの卵管から採取した初期胚を培養することで着床前の胚にまで発生させる技術は確立していた. 1961年,ポーランドタルコフスキー(A. K. Tarkowski)は2つの異なる胚をくっつけたまま発生させるという画期的な技術の開発に成功した.彼は,まず遺伝的に黒毛のマウスと白毛のマウスの卵管から,それぞれ受精後3日たって3回ほど分裂をすませた8細胞期の胚を採取した.次に顕微鏡下で胚の外側の透明帯を切り裂き,取り出した両方の胚を極細のガラス針を使ってくっつけた.これを培養液につけたまま培養器内で数時間培養すると両方の胚は仲良くしっかりとくっついたまま2倍の大きさの1個の胚として成長した.この集合胚を仮親マウスの子宮に移植し,生育させると毛色が白黒混ざっとぶぢのマウスが生まれてきたのである.これが世界で最初のキメラマウス(chimera mouse)誕生の瞬間であった.キメラという名袮はギリシヤ神話に出てくる架空の怪獣の名前に由来する.キメラは,頭はライオン,胴体はヤギ,尾は大蛇からなる火を吐く合体動物である.1962年にはイギリスのミンツ(B. Mintz)らによってプロナーゼという酵素を用いれば胚の透明帯が簡単に溶けること,またフィトヘマグルチニン(赤血球凝集因子)を培養液に加えると高い効率で胚がくっつくことが見いだされ,胚操作の発展が加速された.

 

 1984年になると,英国のウイラドセン(S. M. Willadsen)らによるヒッジとヤギの異種間キメラであるキープ(geep)が作製され,ギリシア神話の現実化として世界的に大きな衝撃を与えた.髭や全身の骨格はヤギに似ており,角や体毛はヒップの特徴を備えた奇妙な合体動物であるキープという名称はヤギの英語(コート; goat)とヒツジの英語(ジープ; sheep)との合成語である.ただしヤギとヒツジとは染色体数が異なるなどの理由で,キープは一代かぎりの動物で,交配によって子孫をつくることはできない.