発生工学の誕生とトランスジェニックマウス

 近年,大きく発展してきた発生生物学と遺伝子工学が結びついた学間分野は発生工学と呼ばれる.発生工学発展の先駆けとなったのは, 1980年,米国のゴードン(J. Gordon)らが発表した外来の遺伝子が導入されたマウスを育てる技術の確立である.彼らは哺乳動物受精卵の次のような特徴をうまく利用した.すなわち,受精してしばらくの間は受精卵の中に卵子由来の核(雌性前核)と進入した精子由来の核(雄性前核)が離れて存在するのである.しばらくすると両方の核は融合して1つの核となり,あとは通常どおり,それぞれの染色体が2倍に複製されて次々と細胞分裂を繰り返しながら子宮のなかで胎児へと発生してゆく.ゴードンらの開発した技術を要約すると以下のようになる.0まず受精卵を核が融合する前の時期にマウスにホルモン注射をして強制的に排卵させる.@次に,受精卵を1つ選んで顕微鏡下で操作してウイルスのDNAを前核に注入する.彼らの発表が大きな衝撃を与えたのはその注入操作技術が革新的であったからである.すなわち,受精卵を吸引によって固定したうえで, DNA溶液を含む極微のガラス針の先端部を受精卵に突き刺して内部のDNA溶液を雄性前核に微量注入したのである.直径が約80μm(1μmは千分の1 mm)という小さな受精卵の核(約10μm)に正確にガラス針を突き剌すためにミクロン単位で先端を自在に動かせるマイクロマニピュレーターという道具を特別に作製した.@つづいて,こうした操作を施しか受精卵を偽妊娠状態にした雌マウスの卵管内に移植する.この雌マウスを通常どおり飼育しつづけると,胎児は順調に子宮内で生育して,外見は普通の子マウスが数匹産まれてきた.さっそくこれら子マウスの尻尾を少々切り取ってゲノムDNAを抽出して調べてみると,注入しかウイルスの遺伝子を染色体DNAに組み込んだ個体がみつかったのである.また,このマウスは生殖細胞にもウイルスDNAを組み込んでいた.そこでこれらのマウスを成長させて普通どおりに受精させると,その子孫にも代々ウイルスDNAがひきつがれてゆくことが確認された.つまり注入されたDNA力1染色体DNA中に安定に組み込まれることによって人為的に新たな遺伝子を導入されたマウスの系統が樹立できたのである.

 

 その後,組み込まれるDNAはウイルスの他のなんでもよいことが明らかとなった.こうしてできたマウスはトランスジェニックマウス(transgenic mouse)と呼ばれる.さらにマウス以外の生物でも類似の操作が可能であることもわかり,これまでに数多くの種類のトランスジェニック生物が作製されてきた.この技術開発により交配に頼らずとも自在に新たな系統が樹立できるという点で動物実験全般に革命を起こすとともに,遺伝子操作技術の応用面にも新たな展開をもたらした.これまで大腸菌や哺乳動物細胞に限られてきた遺伝子操作の適用対象が哺乳動物個体にまで一挙に広がったからである.

 

 開発当初は革命的だったトランスジェニックマウス作製技術も,しばらくするとその作製効率の悪さが障害になってきた.そこでもっと手の込んだ遺伝子ターゲッティング(gene targeting)と呼ばれる効率のよい技術が開発されてきた.そのきっかけとなったのは1981年,英国のエバンス(M亅. Evans)とカウフマン(M. H. Kaufman)による全能性を持つマウスの胚性幹細胞株(ES : embryonicstem cell line)を樹立したという画期的な報告である.彼らはマウスを交配してから4日後に卵巣を除去し,受精した胚が子宮に着床するのを遅らせて中に空洞ができた着床前の胚(胚盤胞)を回収した.胚盤胞の内部には内部細胞塊(ICM:inner cell mass)と呼ばれるあらゆる細胞に分化できるという全能性(totipotency)を有した未分化細胞がある.彼らは内部細胞塊を顕微鏡下で分離して採集し,特殊な培養液で培養することでES細胞株を樹立することに成功したのである.ES細胞は正常細胞でありながら不死性(immortality)を獲得しており,シャーレの中で培養すればいつまでも分裂を続けることができる.しかも分化の全能性を持つため,特定の培養下で脳や筋肉などの特殊に分化した細胞へ分化誘導できる.また,同系統のマウスの腹腔内や皮下に移植すると多種類の組織が混在する奇形腫(teratoma)をつくることも可能である.

 

 ES細胞の持つ特記すべきメリットは,シャーレの中で自在に外来遺伝子を導入したうえで仮親マウスの胚盤胞に注入すると,ES細胞と内部細胞塊とが混ざり合った状態で発生し,仮親由来の細胞とES細胞由来の細胞が混在するキメラマウスが生まれてくることにある.たとえば白毛の母親マウスの胚盤胞に黒毛のマウス由来のES細胞を注入すると,毛色が白黒混ざったぶぢのマウスが生まれてくる.さらにキメラマウスの交配を繰り返して何世代も選択を続けると個体のすべての細胞がES細胞由来となったマウスの系統を樹立することもできる.つまり望む遺伝形質を持ったマウス個体を自由に作製できるという,神のみに許されていた技術を人類はとうとう手に入れてしまったのである.