アメリカ留学と貧乏旅行

 

 「桂子ちゃんがアメリカの大学院に行くようになったらね……」

 

 何気なく先生はおっしゃった。

 

  (アメリカの大学院?)

 

 遠い遠い世界の話である。

 

  (アメリカの大学院、つて気軽に言うけれど、そんな、まさかア……)

 

 本当に「まさか」なのだが、先生のこの一言で遠い遠い世界が一挙に身近になった気がした。ドアがぱっと開け放れたような、体がフツと宙に浮くような、なんとも形容しがたい感覚を、私はその「まさか」といっしょに感じていた。

 

 それから八年後の大学三年のとき、私はアメリカに留学することになる。まさかが半ば本当になるのである。

 

 勉強の方はジャブジャブ読みのおかげもあってか、あまり苦労はしなかったが、私にとって一番思い出深いのは、休暇のたびに長距離バスでアメリカ全土を旅行したことである。訪れた土地は五十州のうち二十六州。何十時間もバスに揺られて砂漠を横切り、ロッ半-出脈を越え。スーパーで買ったにんじんをかじって野菜不足をおきない、たぶんもう二度とできないような貧乏旅行を経験した。

 

 アメリカだけではない。留学中に知り合ったフランス人の友達の家を訪ねて大西洋を渡り、いっしょにヨーロッパ中を旅してまわっだ。フランス、ドイツ、イタリア……。若いからこそできる、また若いころにしかできない冒険旅行だった。

 

 留学を終えて帰国した私が一番強く感じたことは、非常に単純なことなのだが、「世界はアメリカと日本だけからできているのではない」という実感だった。アメリカで出会った留学生、韓国人、フィリピン人、フランス人、オーストリア人。その人たちとのつきあいの中で私の心の中にある世界地図が大きく広がっていくのを感じていた。世界にはいろんな国があっていろんな人が住んでいて、いろんな文化があるのだとアタマの中ではわかっていても、そのことを肌で感じるというのはどういうことなのか、このことを私は友人だちから学んだような気がする。

 

 私がアメリカに留学したのは、Y先生のT言がきっかけだったというのではない。Y先生から「留学したら?」と勧められたこともない。他のさまざまな要因が重なってアメリカで学ぶという道を選択したのだと思う。

 

 ただ、「桂子ちゃんが大きくなってアメリカの大学院に留学したらね……」ということは、

思春期の私にとって初めて明確な形をもった「将来の選択」の一つであった。それを受けとめる私の気持ちが「まさか」であってもだ。

 

 将来のビジョン、人生にはこういう選択もあるかもしれない、そういうものを垣間見せてもらうということは、たとえていうと「海図」を手に入れるようなものである。こっちにはこういう島がある、こっちにはこういう大陸がある。それを私に与えてくれたという意味で、Y先生は一級の教育者だっただろう。

 

 私は流れてきた船に飛び乗ってきた、と前に書いたが、実はこのとき海図を一枚もらっていたのである。ただ、問題は、自分はどんな生き方をしたいのか、どんな仕事をしたいのか、どんな人生を送りたいのか……。それを思春期の間にもっともっと私は考えるべきだったのだろう。留学のチャンスが流れてきたとき、私はその船に飛び乗った。それはそれでよかった、といまは思う。そのときにはわからなかったことがいま見えてきた、ということなのだから。

 

 さらにY先生は海図の読み方と航海技術のサワリを教えてくれた。船先をこっちに向けるためにはこうしたらいい。こっちの方は海流がこう流れているからこうやって船を操縦すればいい。アメリカの大学院に行ったらこういうことで困るかもしれないから、そのためにはしょからこういう勉強をするといい……。

 

 海図を子どもに与えるということは、レールを敷いてやることとはまったく違う。「いい大学」に入るために「いい高校」へ。「いい高校」に入学するために「いい中学」へ。こうやっこ受験競争に勝ち残るために早い時期から子どものお尻をたたいて勉強させること、これはレールを敷いてやることだ。それに対して、海図を与えることは「人生の目標」を子どもに考えさせることなのだ。

 

 受験勉強を、ただ「いい大学」に入るためのテクニックと見るか、それとも「自分の行きたい大学」に入るための勉強と見るのか、この違いによってその意味も大きく変わってくる。「自分の行きたい大学」あるいは「自分のやりたいこと」を見定めるために、子どもに海図を、それもなるべく大きな海図を与えてやりたいものだ。

辞書を使うと挫折する

 

 日本人が最も苦労するというのはこの大量の文章をざっと読んで理解することだという。細かく読んで「ザット以下の内容は」という具合に精読するのは得意だが、いわゆる「ななめ読み」ができないというのである。

 

 「だからね、いまのうちからいっぱい本を読みなさい。それも辞書を使ったらダメよ。辞書を使わずに読めてお話のおもしろさにつられてどんどんページをめくれるようなもの。たとえばね……」

 

 と、私にくださっだのが英語版の『星の王子さま』と『アンネの日記』だった。

 

  『星の王子さま』は翻訳版を読んで泣いた。話のあら筋を刧っているので、わからない単語がいっぱいあるにもかかわらず、なんとなく「読めるような気分」にさせられる。

 

  『アンネの口』記』の方は、ストーリーは知っていたが、英語がいまひとつ難しすぎて

全部は読めなかった。しばらくしてからY先生にお会いしたとき、「『アンネの日記』はちょっとむずかしすぎるみたいです」と申し上げたら、

 

  「じゃあ、こっちにしてみたら?」

 

 と、貸してくださったのは確か『トムソーヤの冒険』だったと思う。それが終わると『ハックルベリーフィンの冒険』。その次は『宝島』……。四、五冊目からは丸善でペーパーバックを自分で買ってきて貪るように読み続けていった。『赤毛のアン』シリーズ、『大草原の小さな家』シリーズ、『シャーロックーホームズの冒険』、C.S.ルイスの『ナルニア国物語』全巻。こうして子ども時代に読んだ児童文学を、私は中学、高校の六年間に原書で読み直していったのである。

 

 「英語の本を安く買うなら日本の古本屋に行け、っていう笑い話があるのよ」

 

 Y先生はこんなことも教えてくれた。

 

 「最初の五ページはいっぱい書き込みがあって汚ないけれど、あとはほとんど新品同様だからって言うの。わからない単語は辞書を引くものだ、と教え込まされているから最初は一生懸命調べるでしよ、でもそのうちにイヤになっちゃうの」

 

 このイヤになるという挫折感が一番怖いという。

 

 「イヤにならない程度のものをジャブジャブ読むこと。一ページに三回以上辞書を引かなきやストーリーがわからないものは読んではだめ、そういう本は頭が悪くなる本だって思えばいいのよ。でも、同じ言葉が何回も出てきて、これがわからなかったら話の筋がわからないっていう単語にかぎっでは辞書を引きなさいね。そうして調べた単語はあとあとまで頭に残るから」

 

 これが一見遠まわりのようで一番確かな英語学習法とのことである。このジャブジャブ読みが私にとってどれだけ大切な財産になったかわからない。Y先生の所へ両親といっしょにでかけだのは、英語の勉強方法をアドバイスしてもらうためであった。その日私の話がすんでから大人たちは世間話に花を咲かせ、お茶とお菓子をよばれて帰ったはずだ。別になんということのない平凡な半日であるが、いま思い起こすと、Y先生にこの日お会いしたことは、私のその後の人生展開において大きな意味を持っている。

アメリカの大学での苦労

 

 言葉を「使う」ということは相手とコミュニケートすることである。相手の言っていることの文脈をとらえ、そして自分の伝えたいことを練りあげる。文脈をとらえるためにも自分の伝えたいことを練りあげるにも、材料がなくてはなんにもならない。

 

 そういったコミュニケーションの材料を、自分の中にたっぷりためこむことの大切さを知ったのに、ある人との出会いを通してであった。アメリカから帰国して一年ほどたったころである。

 

 帰国したあと、あっというまに忘れていった英語だが、四人の兄弟の中でかろうじてその痕跡をとどめたのは私一人だけだった。帰国してすぐ編入した中学で英語の授業があり、なんとか英語を継続して学習することができたというのも私にとっては幸いした。

 

 だが、私の英語の成績は惨たんたるものだった。EASTの発音がイーストだったかイエストだったか、このカッコの中に入れるのはイズなのかアーなのか。と迷ううちにテストの時間は過ぎてしまう。

 

 私の英語の成績がかんばしくなかった、というのを「ペーパーテストだったから」とか、「学校の英語は杓子定規だから」と理由づけるのはまちがっでいる。ペーパーテストができなかっだのは、実は、私がきちんとした英語を身につけていなかったということなのだ。発音が少しばかりよくても、あるいはヒアリングの力が人より少しばかり勝っていたとしても、私の英語はあくまでも子どもの英語だったのである。

 

 「じやあ、きちんとした英語を身につける上で何が一番役にだったの?」

 

 これもよく人から聞かれる質問だ。あまりに単純なことのように聞こえるだろうが、答えは本を原書で山ほど読んだことなのである。

 

 そのきっかけを与えてくれたのは両親だった。彼らの古い友人で私を小さいころからかわいがってくれたY先生の所へ連れていってくれたのである。「アメリカでせっかく英語を覚えたのだが」というのが相談の内容だった。

 

 子どものころにおじゃました先生のお宅の思い出は、私にとって「外国の匂い」の原風景でもある。Y先生は海外生活が長かったハイカラなご両親といっしょに住んでおられた。当時はまだめずらしかった洋風の家具調度品。台所からは私たちの知らないスパイスの香りが漂ってくる。幼稚園に通っていた私が「ちがうにおいがするね」と言って母にたしなめられたことを覚えている。

 

 Y先生は戦後間もなくアメリカに留学し、その後ある大学で教鞭をとっておられた。

 

 確かご自宅の応接間だったと思う。おだやかな口調でY先生はこう切り出した。

 

 「桂子ちゃん、日本人が英語で一番苦労することってなんだと思う?」

 

 「さあ、よくわかりません……」

 

 「あのね、発音とかヒアリングじゃないのよ。ふつうはこれが苦子だってみんな思ってい

るけれど違うのよ。桂子ちゃんが大きくなって、もしもアメリカの大学院に行ったら一番苦労するのはね、読むことなのよ、読むこと」

 

 そのとき私は中学一年生だった。まだまだ子どもの中学生に「アメリカの大学院」の話は遠い別世界のことだった。

 

  「アメリカの大学はね、そりゃあいっぱい本を読ませるの。一日に二百ページから三百ページくらい読みこなせないと、とても授業についていけないのよ」

小さい頃からの英語は必要か

 

 小さいうちから英語に親しむ、そのこと自体は決して悪いものではないのだが、それだけで自動的に英語ができるようになると思うのは大まちがいである。

 

子どもは語学の天才、の正体

 

「どうしてそんなに英語が話せるのですか?」

 

この質問を私は何人の人から聞かれただろう。

 

そう聞かれるだけに私は「一生懸命勉強したからです」と答えることにしている。

一生懸命勉強した。

 

 本当のところ、私か曲がりなりにも英語が使えるようになったその理由は、これに尽きるのである。

 

 実は十一歳から十二歳までの一年間、アメリカで生活したことがある。父の仕事の関係で一家六人コロラド州デンバーで暮らしたのである。一九六九年から一九七〇年のことだった。私はそのころにはまだめずらしかった帰国子女のハシリなのである。

 

 だが、

 

 「小さいころアメリカにいました」と言うと、

 

 「なーんだ、そうか。それなら英語ができて当然だ」、という顔をされる。

 

 それがシャクにさわるのである。

 

 アメリカにいたといってもたったの一年間である。それで英語ができて当然と思われては困るのだ。

 

 確かに発音とヒアリングという日本人がもっとも苦手とされる部分では、一年間という短い期間ではあったが、かなりトクをしたと思っている。

 

 だが言葉というものは「発音とヒアリング」だけで成り立っているのではない。

 

 私には三人の弟がいる。アメリカに行ったときは、十一歳の私を頭に、九歳、五歳、二歳半という顔ぶれだった。この四人のうち私と一番上の弟だけは地元の公立小学校に通うことになった。当地に着いて三日目のことである。母親に手を引かねて校門をくぐり、母が校長室でなにやら簡単な説明を受けたあと、事務室のおばさんからランチカードと呼ばれる給食の券を渡されて、母とはそこでバイバイ。まさに「ぽつりこまれた」という感じでアメリカの学校生活か始まった。

 

 そのとき私が知っていたのは「ハロー」と「ハウドウユードウ」と、トイレに行きたいとい う意味の「アイウォンツーゴーツーザレストルーム」のみ。トイレのドアに書いてある文字も読めなかった。読めなかったからその日はまちがえて男の子のトイレに飛び込むという失敗もしでかした。

 

 そんなわからない状態だったが、三ヵ月後にはけっこうたくさんの友達ができてい

たのを覚えている。彼らとはどうにかこうにか意志の疎通ができていた。このことを思えばやっぱり子どもは語学の天才だろう。しかも子どもが小さければ小さいほど、覚えるのもまた早い。事実、下の弟は私よりずっとずっと早く英語を覚えていった。

 

 「おねえちゃん、発音できる?」

 

 と、得意げに聞いてきたのも彼である。

 

 これには日本人の苦手なRとLの発音がまじっている。

 「かたくして、ライオンみたいにうなればいいのさ」

 

 こともなげに答える彼の言葉に「ちえ、先を越されたな」と悔しく思いながらも、彼の言うとおりにしてみれば、それらしい発音ができるのだ。

 

 一方、当時四十二歳の父は「のどをかたくして、ライオンみたいにうなる」という具合にはうまく事が運ばなかった。何力月たっても酒屋で「ラム酒が欲しい」という注文が店員に伝わらなかったし、アイスクリームショップでは(バニラ)がわかってもらえない。

 

 語学習得の速度だけから考えれば、四人の兄弟のうち末の弟の上達が一番早かった。本当にあっというまに「ワン、ツー、スリー」と口ずさむようになっていたし、家に遊びに来ていた近所の赤ちゃんがテーブルクロスをひっぱろうとすると、おむつでモコモコするおしりを振りながらヨチヨチかけ寄り「ドンタッチ」と制止する。

 

 語学の学習は早ければ早い方がいい。

 しかし、肝心なのはここからだ。日本に帰国してからどうなったか。私たちの英語はあっと

いうまに跡形もなく消え去っていったのである。まるで帰る途中の飛行機の中でポロポロ頭か

らこぼれ落ちたかのように。

 子どもはすらすら覚えるが、しかし忘れるのもまた早い。

 

 

「二歳から英語をしゃべった」のからくり

 あっというまに覚え、そしてあっというまに忘れる子どもの英語。

 問題は、そのあっというまに覚えていく「子どもの英語」をどう「大人の英語」に結びつけていくのか、ということだ。

 

英語のできない帰国子女

 

 子どもの英語と大人の英語の違いというのは、人が「さあ、ごはんよ」という言葉を理解できても「国際経済は今後どうあるべきか」などという議論が理解できないのとよく似ている。あの時点で私たちの子どもにとって「これはだれ?」「ママよ」という「文脈」がちょうど体 の大きさに合っていたのだろう。

 

 よくディズニーの英語システムの宣伝に、「テープを聞かせて1ヵ月後に発音した子どもの英語がホンモノでした」なんていう談話が載っていたりするが、発音がネーティブに近いということだけで驚いてはいけないと思う。単語をすらすら覚えていくというのも、子どもにとっては当然のことなのだ。

 

 外国語を覚えるというのは道具の使い方を覚えるということだ。それ以上でもそれ以下でもない。もっとも、いろいろな道具がうまく使いこなせればそれにこしたことはない。その点で早い時期から子どもを英語教室に通わすということも決して無駄なこととは思わない。だが、もっと大切な問題は、使えるようになった道具で、何を作るかということではないだろうか。いくら精巧な道具を持っていても、何かを作リだす「材料」がなければ何にもならないのである。

 

 帰国子女と呼ばれる人でもまともな英語が使えない人を私は何人も知っている。ペラペラとはしゃべれるが、しゃべる内容がペラペラな人たち。発音がネイティブに近いというそれだけでチヤホヤされてきた結果である。また、子どもをバイリンガルにしたいとアメリカンスクールに通わせたはいいが、結果的には日本語も英語も中途半端な「セミリンガル」に育ってしまったという例も知っている。こちらの方はもっと悲劇的だ。こういう人は翻訳家に一生なれないと言われる。

 

 道具の使い方を覚えるだけでは不十分だ。自分が作ろうとしているものが何なのか、それについてどれだけ理解できるのか、どれだけ深くあるいは広くイメージをふくらませられるのか、そしてどれだけ多くの材料を用意できるのか。材料を自分の中に蓄え、たくさん用意することが、いかに深く広いコミュニケーションをかわせるかを決定するといっても過言ではない。そして、これこそが「子どもの英語」を「大人の茱語」につなげていくミツシンヅーリンクなのだ。

 子どもの英語とは

 子どもの英語とは何を意味するのか、一つ例をご紹介しよう。

 

 私の子どもが英語を「しゃべった」のは二歳半のときだった。

 

 「へえ?/」とびっくりして、二体どうやって教えたの?」と、聞きたがる。

 

 そのからくりは、実はこういうことなのである。

 

 子どもが二歳半のとき、アメリカ人のRさんが私たちの家に泊りに来た。Rさんはかなり年配の紳士で、日本語がまったくわからない。したがって夫と私と彼の三人は英語で話していた。「大人の話」が訳のわからない言葉でかわされるので、麻里恵はしばらく一人でおとなしく遊んでいたが、退屈したのだろう、なんとか自分の方に注意を引こうと彼女なりに考え始めたらしかっか。

 

 まず、持ってきたのは英語の絵本。これはずっと前に買い与えていたのだがまったく見向きもしなかった本である。それをわざわざ引っぱりだしてきて、「ほら、こんなのもあるのよ、えいごの本よ」と言わんばかりにRさんに見せ始めた。

 

 「へえ、英語の絵本を持っているの? どれどれ、あ、カバがいるね。こんな大きな鼻のカバが風邪をひいたらどうするんだろう? おおっきなティッシュペーパーがいるかな?」

 

 Rさんはお愛想まじりで娘の相手をしてくれるが、英語で話しているので彼女にはまったく通じない。何を言っているのかわからないから、だめだ」といった感じで彼女はRさんの子から絵本をひったくると、今度はピアノの上によじ登り、そこに置いてあった私たちの結婚写真を手に戻ってきた。

 

 「ねえ、見て見て」と、再度挑戦(結婚写真を誰かに見せるというのも初めての行勤だ)。

 

 仕方がないので子どもの相手をしてやるRさん。

 

 花嫁姿の私を指さし、

 

  (これはだれ?)

 

  そのときである。麻里恵の顔がパッと明るく輝き、得意満面の笑顔ではっきり彼女はこう言ったのだ。 

 

 「マミーノ」 (ママよ)

 

 ことかってあくび、彼女がこの時点でという文の意味を知らなかったということを、私は一〇〇パーセントの自信を持って断言できる。教えていなかったからだ。あえて言えば、一歳ごろから時々ピクチャーディクショナリーと呼ばれる絵つきの辞書を見せながら、タイガーだのエレファントだのという単語をポツポツ教えてやり、そのついでに「お母さんはマミー、お父さんはダディー」とは教えてやっていた。だが、私たちの日常生活の中で「マミー、ダディー」と呼びあうこと、つまり実際に「使う」ことは一度もなかった。

 

 だが、彼女は写真の中の花嫁を指さしながら彼が言っているのが、「これはだれ?」という意味だろうとアテをつけ、文脈をとらえた。そして、その文脈の中で「ママだよ」と答えたのである。

 

 この一件で注目したいのは、相手の言っている言葉の意味がわからなくても「これはだれ?」と聞いているんだな、と子どもが推測できたということだ。文脈を推測し、アテをつけ、しかも実際のシチュエーションの中で「マミー/」と発話した。彼女の口からでた言葉はマミーの一言。しかし、彼女はこの言葉を一連の文脈の中で発したのだ。この事実をもって私は彼女が英語を「しゃべった」と判断する。

 

 彼女はただただ自分に気を引きたかった。お客様の注意を引くための手段の一つとして一番有効だと判断したのが彼とコミュニケーションをとることだった。彼とお母さんたちがしゃべっている訳のわからない言葉は「えいご」だろう。彼女は彼女なりに必死で考えをめぐらしたに違いない。まず「えいごの本」を引っぱりだしてきてみせた。だが、その本を介在させても彼の言っていることはわからない。カバがどうのこうの、という内容の文脈は彼女には複雑すぎたのだ。そこで自分か知っているマミー、ダディーを話題にしてみよう、と結婚写真を見せたのだ。

 

 2歳の子どもでも文脈をとらえることができるというのも、実は驚くにはあたらない。ある説によると、人と人がコミュニケーションをする上で二亘語そのものが伝えるメッセージは全体のわずか七八-セントにしか過ぎないという。あとの九三八-セントはジェスチャーや顔の表情、そして声のトーンなどで伝わるというのである。

 

 よく、犬が飼い主の言葉を理解できるといわれるが、それは犬がご主人様の顔の表情やちょっとしたしぐさの意味を解読できるからである。子どもを犬と比較するのは少々気がひけるが、私たちの子どもが英語をしゃべったというのも、大がたとえば「さあ、ごはんよ」と言う人間の言葉を理解できるのと五十歩百歩なのではないだろうか。

 

小さい頃からの英語は必要か

 

 小さいうちから英語に親しむ、そのこと自体は決して悪いものではないのだが、それだけで自動的に英語ができるようになると思うのは大まちがいである。

 

子どもは語学の天才、の正体

 

「どうしてそんなに英語が話せるのですか?」

 

この質問を私は何人の人から聞かれただろう。

 

そう聞かれるだけに私は「一生懸命勉強したからです」と答えることにしている。

一生懸命勉強した。

 

 本当のところ、私か曲がりなりにも英語が使えるようになったその理由は、これに尽きるのである。

 

 実は十一歳から十二歳までの一年間、アメリカで生活したことがある。父の仕事の関係で一家六人コロラド州デンバーで暮らしたのである。一九六九年から一九七〇年のことだった。私はそのころにはまだめずらしかった帰国子女のハシリなのである。

 

 だが、

 

 「小さいころアメリカにいました」と言うと、

 

 「なーんだ、そうか。それなら英語ができて当然だ」、という顔をされる。

 

 それがシャクにさわるのである。

 

 アメリカにいたといってもたったの一年間である。それで英語ができて当然と思われては困るのだ。

 

 確かに発音とヒアリングという日本人がもっとも苦手とされる部分では、一年間という短い期間ではあったが、かなりトクをしたと思っている。

 

 だが言葉というものは「発音とヒアリング」だけで成り立っているのではない。

 

 私には三人の弟がいる。アメリカに行ったときは、十一歳の私を頭に、九歳、五歳、二歳半という顔ぶれだった。この四人のうち私と一番上の弟だけは地元の公立小学校に通うことになった。当地に着いて三日目のことである。母親に手を引かねて校門をくぐり、母が校長室でなにやら簡単な説明を受けたあと、事務室のおばさんからランチカードと呼ばれる給食の券を渡されて、母とはそこでバイバイ。まさに「ぽつりこまれた」という感じでアメリカの学校生活か始まった。

 

 そのとき私が知っていたのは「ハロー」と「ハウドウユードウ」と、トイレに行きたいとい う意味の「アイウォンツーゴーツーザレストルーム」のみ。トイレのドアに書いてある文字も読めなかった。読めなかったからその日はまちがえて男の子のトイレに飛び込むという失敗もしでかした。

 

 そんなわからない状態だったが、三ヵ月後にはけっこうたくさんの友達ができてい

たのを覚えている。彼らとはどうにかこうにか意志の疎通ができていた。このことを思えばやっぱり子どもは語学の天才だろう。しかも子どもが小さければ小さいほど、覚えるのもまた早い。事実、下の弟は私よりずっとずっと早く英語を覚えていった。

 

 「おねえちゃん、発音できる?」

 

 と、得意げに聞いてきたのも彼である。

 

 これには日本人の苦手なRとLの発音がまじっている。

 「かたくして、ライオンみたいにうなればいいのさ」

 

 こともなげに答える彼の言葉に「ちえ、先を越されたな」と悔しく思いながらも、彼の言うとおりにしてみれば、それらしい発音ができるのだ。

 

 一方、当時四十二歳の父は「のどをかたくして、ライオンみたいにうなる」という具合にはうまく事が運ばなかった。何力月たっても酒屋で「ラム酒が欲しい」という注文が店員に伝わらなかったし、アイスクリームショップでは(バニラ)がわかってもらえない。

 

 語学習得の速度だけから考えれば、四人の兄弟のうち末の弟の上達が一番早かった。本当にあっというまに「ワン、ツー、スリー」と口ずさむようになっていたし、家に遊びに来ていた近所の赤ちゃんがテーブルクロスをひっぱろうとすると、おむつでモコモコするおしりを振りながらヨチヨチかけ寄り「ドンタッチ」と制止する。

 

 語学の学習は早ければ早い方がいい。

 しかし、肝心なのはここからだ。日本に帰国してからどうなったか。私たちの英語はあっと

いうまに跡形もなく消え去っていったのである。まるで帰る途中の飛行機の中でポロポロ頭か

らこぼれ落ちたかのように。

 子どもはすらすら覚えるが、しかし忘れるのもまた早い。

 

 

「二歳から英語をしゃべった」のからくり

 あっというまに覚え、そしてあっというまに忘れる子どもの英語。

 問題は、そのあっというまに覚えていく「子どもの英語」をどう「大人の英語」に結びつけていくのか、ということだ。