英語のできない帰国子女

 

 子どもの英語と大人の英語の違いというのは、人が「さあ、ごはんよ」という言葉を理解できても「国際経済は今後どうあるべきか」などという議論が理解できないのとよく似ている。あの時点で私たちの子どもにとって「これはだれ?」「ママよ」という「文脈」がちょうど体 の大きさに合っていたのだろう。

 

 よくディズニーの英語システムの宣伝に、「テープを聞かせて1ヵ月後に発音した子どもの英語がホンモノでした」なんていう談話が載っていたりするが、発音がネーティブに近いということだけで驚いてはいけないと思う。単語をすらすら覚えていくというのも、子どもにとっては当然のことなのだ。

 

 外国語を覚えるというのは道具の使い方を覚えるということだ。それ以上でもそれ以下でもない。もっとも、いろいろな道具がうまく使いこなせればそれにこしたことはない。その点で早い時期から子どもを英語教室に通わすということも決して無駄なこととは思わない。だが、もっと大切な問題は、使えるようになった道具で、何を作るかということではないだろうか。いくら精巧な道具を持っていても、何かを作リだす「材料」がなければ何にもならないのである。

 

 帰国子女と呼ばれる人でもまともな英語が使えない人を私は何人も知っている。ペラペラとはしゃべれるが、しゃべる内容がペラペラな人たち。発音がネイティブに近いというそれだけでチヤホヤされてきた結果である。また、子どもをバイリンガルにしたいとアメリカンスクールに通わせたはいいが、結果的には日本語も英語も中途半端な「セミリンガル」に育ってしまったという例も知っている。こちらの方はもっと悲劇的だ。こういう人は翻訳家に一生なれないと言われる。

 

 道具の使い方を覚えるだけでは不十分だ。自分が作ろうとしているものが何なのか、それについてどれだけ理解できるのか、どれだけ深くあるいは広くイメージをふくらませられるのか、そしてどれだけ多くの材料を用意できるのか。材料を自分の中に蓄え、たくさん用意することが、いかに深く広いコミュニケーションをかわせるかを決定するといっても過言ではない。そして、これこそが「子どもの英語」を「大人の茱語」につなげていくミツシンヅーリンクなのだ。