アメリカの大学での苦労

 

 言葉を「使う」ということは相手とコミュニケートすることである。相手の言っていることの文脈をとらえ、そして自分の伝えたいことを練りあげる。文脈をとらえるためにも自分の伝えたいことを練りあげるにも、材料がなくてはなんにもならない。

 

 そういったコミュニケーションの材料を、自分の中にたっぷりためこむことの大切さを知ったのに、ある人との出会いを通してであった。アメリカから帰国して一年ほどたったころである。

 

 帰国したあと、あっというまに忘れていった英語だが、四人の兄弟の中でかろうじてその痕跡をとどめたのは私一人だけだった。帰国してすぐ編入した中学で英語の授業があり、なんとか英語を継続して学習することができたというのも私にとっては幸いした。

 

 だが、私の英語の成績は惨たんたるものだった。EASTの発音がイーストだったかイエストだったか、このカッコの中に入れるのはイズなのかアーなのか。と迷ううちにテストの時間は過ぎてしまう。

 

 私の英語の成績がかんばしくなかった、というのを「ペーパーテストだったから」とか、「学校の英語は杓子定規だから」と理由づけるのはまちがっでいる。ペーパーテストができなかっだのは、実は、私がきちんとした英語を身につけていなかったということなのだ。発音が少しばかりよくても、あるいはヒアリングの力が人より少しばかり勝っていたとしても、私の英語はあくまでも子どもの英語だったのである。

 

 「じやあ、きちんとした英語を身につける上で何が一番役にだったの?」

 

 これもよく人から聞かれる質問だ。あまりに単純なことのように聞こえるだろうが、答えは本を原書で山ほど読んだことなのである。

 

 そのきっかけを与えてくれたのは両親だった。彼らの古い友人で私を小さいころからかわいがってくれたY先生の所へ連れていってくれたのである。「アメリカでせっかく英語を覚えたのだが」というのが相談の内容だった。

 

 子どものころにおじゃました先生のお宅の思い出は、私にとって「外国の匂い」の原風景でもある。Y先生は海外生活が長かったハイカラなご両親といっしょに住んでおられた。当時はまだめずらしかった洋風の家具調度品。台所からは私たちの知らないスパイスの香りが漂ってくる。幼稚園に通っていた私が「ちがうにおいがするね」と言って母にたしなめられたことを覚えている。

 

 Y先生は戦後間もなくアメリカに留学し、その後ある大学で教鞭をとっておられた。

 

 確かご自宅の応接間だったと思う。おだやかな口調でY先生はこう切り出した。

 

 「桂子ちゃん、日本人が英語で一番苦労することってなんだと思う?」

 

 「さあ、よくわかりません……」

 

 「あのね、発音とかヒアリングじゃないのよ。ふつうはこれが苦子だってみんな思ってい

るけれど違うのよ。桂子ちゃんが大きくなって、もしもアメリカの大学院に行ったら一番苦労するのはね、読むことなのよ、読むこと」

 

 そのとき私は中学一年生だった。まだまだ子どもの中学生に「アメリカの大学院」の話は遠い別世界のことだった。

 

  「アメリカの大学はね、そりゃあいっぱい本を読ませるの。一日に二百ページから三百ページくらい読みこなせないと、とても授業についていけないのよ」