アメリカ留学と貧乏旅行

 

 「桂子ちゃんがアメリカの大学院に行くようになったらね……」

 

 何気なく先生はおっしゃった。

 

  (アメリカの大学院?)

 

 遠い遠い世界の話である。

 

  (アメリカの大学院、つて気軽に言うけれど、そんな、まさかア……)

 

 本当に「まさか」なのだが、先生のこの一言で遠い遠い世界が一挙に身近になった気がした。ドアがぱっと開け放れたような、体がフツと宙に浮くような、なんとも形容しがたい感覚を、私はその「まさか」といっしょに感じていた。

 

 それから八年後の大学三年のとき、私はアメリカに留学することになる。まさかが半ば本当になるのである。

 

 勉強の方はジャブジャブ読みのおかげもあってか、あまり苦労はしなかったが、私にとって一番思い出深いのは、休暇のたびに長距離バスでアメリカ全土を旅行したことである。訪れた土地は五十州のうち二十六州。何十時間もバスに揺られて砂漠を横切り、ロッ半-出脈を越え。スーパーで買ったにんじんをかじって野菜不足をおきない、たぶんもう二度とできないような貧乏旅行を経験した。

 

 アメリカだけではない。留学中に知り合ったフランス人の友達の家を訪ねて大西洋を渡り、いっしょにヨーロッパ中を旅してまわっだ。フランス、ドイツ、イタリア……。若いからこそできる、また若いころにしかできない冒険旅行だった。

 

 留学を終えて帰国した私が一番強く感じたことは、非常に単純なことなのだが、「世界はアメリカと日本だけからできているのではない」という実感だった。アメリカで出会った留学生、韓国人、フィリピン人、フランス人、オーストリア人。その人たちとのつきあいの中で私の心の中にある世界地図が大きく広がっていくのを感じていた。世界にはいろんな国があっていろんな人が住んでいて、いろんな文化があるのだとアタマの中ではわかっていても、そのことを肌で感じるというのはどういうことなのか、このことを私は友人だちから学んだような気がする。

 

 私がアメリカに留学したのは、Y先生のT言がきっかけだったというのではない。Y先生から「留学したら?」と勧められたこともない。他のさまざまな要因が重なってアメリカで学ぶという道を選択したのだと思う。

 

 ただ、「桂子ちゃんが大きくなってアメリカの大学院に留学したらね……」ということは、

思春期の私にとって初めて明確な形をもった「将来の選択」の一つであった。それを受けとめる私の気持ちが「まさか」であってもだ。

 

 将来のビジョン、人生にはこういう選択もあるかもしれない、そういうものを垣間見せてもらうということは、たとえていうと「海図」を手に入れるようなものである。こっちにはこういう島がある、こっちにはこういう大陸がある。それを私に与えてくれたという意味で、Y先生は一級の教育者だっただろう。

 

 私は流れてきた船に飛び乗ってきた、と前に書いたが、実はこのとき海図を一枚もらっていたのである。ただ、問題は、自分はどんな生き方をしたいのか、どんな仕事をしたいのか、どんな人生を送りたいのか……。それを思春期の間にもっともっと私は考えるべきだったのだろう。留学のチャンスが流れてきたとき、私はその船に飛び乗った。それはそれでよかった、といまは思う。そのときにはわからなかったことがいま見えてきた、ということなのだから。

 

 さらにY先生は海図の読み方と航海技術のサワリを教えてくれた。船先をこっちに向けるためにはこうしたらいい。こっちの方は海流がこう流れているからこうやって船を操縦すればいい。アメリカの大学院に行ったらこういうことで困るかもしれないから、そのためにはしょからこういう勉強をするといい……。

 

 海図を子どもに与えるということは、レールを敷いてやることとはまったく違う。「いい大学」に入るために「いい高校」へ。「いい高校」に入学するために「いい中学」へ。こうやっこ受験競争に勝ち残るために早い時期から子どものお尻をたたいて勉強させること、これはレールを敷いてやることだ。それに対して、海図を与えることは「人生の目標」を子どもに考えさせることなのだ。

 

 受験勉強を、ただ「いい大学」に入るためのテクニックと見るか、それとも「自分の行きたい大学」に入るための勉強と見るのか、この違いによってその意味も大きく変わってくる。「自分の行きたい大学」あるいは「自分のやりたいこと」を見定めるために、子どもに海図を、それもなるべく大きな海図を与えてやりたいものだ。