外国語の環境づくり

 

 子どもが体で言葉を覚えていくのは、この例でもわかるとおり、日常生活の中でどっぷりその言葉につかりかって初めて可能になるのである。言葉をしゃべり始めたころの子どもを相手にしたことのある人には必ずや心あたりがあるだろうが、子どもはそれこそ朝起きてから夜寝るまで四六時中ずっとしゃベリつぱなしなのである。あれだけの練習量と言葉に露光される時間があったら、大人だって二年くらいで外国語の一つや二つモノにできるかもしれない。

 

 それだけコトバにさらされていてこそ外国語が「環境」となる。子どもの能力は環境次第、という場合の「環境」とは、それ自体が親にとって自然なものでないかぎり、それを作りだすには親白身にそれ相応の努力が必要とされるのだ。家庭の中に飛びかう言葉の数だけ、子どもは言葉を習得していく、この単純な事実を支えるのは親のなみなみならぬ努力である。

 

 仮に英語教室に週三日通わせたとしても、年間百五十六時間。たったの六・八日分だ。英語に接する時間の絶対量がたりないのである。つより外国語の環境とは、週に何度か教室に通うくらいで作られるものではないと思うのだ。いかがなものだろう。

 

 もっとも、英語教室に赤ちゃんを通わせているお母さんたちは、そこまで真剣に考えていないかもしれない。

 

 「バイリンガルを目指すというよりも、とりあえず英語に免疫をつけておきたい」

 

 つまり、英語に「親しむ」ことが一義的な目標なのだといわれるかもしれない。そういう方にはこう反論したい。

 

 英語に親しむことだけが目的であるならば、もっともっと安上がりの方法はいくらでもある、と。

 

 「セサミストリート」をビデオにとって見せておくのもよし、NBKの「英語であそぼう」でもいい。子ども向けの英語ビデオやテープも書店で手軽に手に入る。こういうものを家で流しておくだけでも子どもはかなりの時間英語に接することになる。

 

 ただし、ビデオやテレビ、テープといった類の利用は、あくまで英語に親しむというレベルでの話。「親しむ」先には何があるのだろう。「親しむ」というのはあくまでもその言葉が「使える」ようになるための一つのステップではないのだろうか。とすれば、問題は、「語学に親しんでいればその言葉が『使える』ようになるのだろうか」、ということになる。

 

 答えは、残念なことに「ノー」である。