アメリカの国立衛生研究所上層部の科学者たち

 電気も暖房もない状態で、ニーナたち研究者は、自然光のもと、一年の大半は外套を着て手袋をはめたままはたらき、タイプライターを打った。体をあたためるために、携帯用の石油ストーブをもち、コーヒーや紅茶をあたためる際には乾燥アルコールの小片をIカップにつき二片、燃やした。少なくとも冬のあいだは、冷凍しなくてもファージは活かしておくことができた。周囲の気温が非常に低かったからだ。一九九〇年代初頭の夏の数力月、電力供給の一時停止や完全停止によって、研究所のファージの半分近くが死んだ。数十もの細菌種の菌株それぞれに作用する五〇〇種類以上のファージが。

 最初のひとすじの希望の光は、ジョージーソロスから間接的にやってきた。通貨の売買で巨富を築いたこの億万長者は、冷戦の終結とともに、束ヨーロッパに民主主義を普及させようと、さまざまな基盤を築こうとしていた。一九九二年、ソロスのトビリシの財団は、エリアヴァ研究所の完全な崩壊を食い止めるため、一度に三万ドルの寄付金を与えた。この寄付金により、研究所は実験器具とコンピュータの部品を購入し、わずかな給与と諸経費を支払った。職員の期待は高まったが、財団はソロス本人と職員たちを会わせようとはしなかった。ソロス自身が研究所を訪問せず、その後の追加の寄付が具体化しなかったことに、研究者は失望した。

 チャニシヴィリと同僚にとって、一九九三年から九四年の期間は、最悪の時期たった。市民の敵対行為は鎮まったものの、電気や暖房の供給はほとんどなかった。研究所では、ファージがどんどん死んでいき、二〇人の職員は研究所が閉鎖にならないよう闘っていた。チャニシヴィリは、スイスの友人を通じてのみ、小麦粉、砂糖、ジャガイモを購入することができ、家族はなんとか生きながらえていた。

 研究所は生き残りを賭け、ヨーロッパかアメリカの医療企業家の関心を惹き、ファージに投資してもらおうとした。だが、なにからとりかかればいいのか、幹部には見当もつかなかった。それに警戒もしていた。数十年に及ぶ共産主義支配によって育てられた猜疑心が、一夜にして消散するはずがなかった。だが、かれらの知らぬところで、アメリカの国立衛生研究所上層部の科学者たちは、長年ファージ に深い関心をもっており、ちょうど注目すべき実験をおこなったところだった。かれらは、ファージを治療に応用するうえで、最大の難点をひとつ解決したようだった。実験結果に興奮した科学者たちは、アメリカに初のファージ事業を興そうとしていた。新世紀のはじまりに、世界でもっとも科学が進歩した国で、五十年以上バクテリアーファイターたちに見向きもされてこなかったものが、ようやく囗の目を見ようとしていたのである。