予算

 そして一九八九年、ソ連共産主義体制が崩壊をはしめた。グルジアでは、長いおいた抑圧されていた独立を求める声が、国内に無政府状態をもたらした。数力月のあいたに七〇〇人の研究者が二〇〇人に削減された。残った研究者たちは町に銃弾が飛びかうなか、研究室の建物に姿を隠し、ゲオルゲーエリアヅアの伝説-七十年間冷凍保存され、活性を保ってきた数千ものファージからなる、唯一無二の生物試料室、新しい細菌株との闘いに役立つ膨大な生物学の知識の宝庫-が、破壊の瀬戸際にさらされた。当時、包囲されていた二〇〇人の研究者は、どれほどたくましい想像力をもってしても、研究所とファージに、もっと将来性のある新しい時代がはじまろうとしているとは、夢にも思わなかっただろファージを守る研究所毎朝、ニーナーチャニシヴィリと同僚は、三人以上のグループで自宅から研究所に徒歩で出勤した。公共の交通機関がとまっているからだ。遠くからいつも砲撃の音が聞こえ、だれもが、無差別に発砲された銃弾に命を奪われた人間をだれかしら知っていた。研究室の入り口に警備員はいなかった。だから研究者たちは、グルジアの衝突する民兵たちがファージや細菌のガラス瓶を盗んでも意味がないと気づいてくれるよう祈るしかなかった。一週間に三日、夜六時から十時まで、チャニシヴィリは私立大学で生物学を教えていた。砲撃が闇夜を切り裂くなか、彼女はひとりぼっちで大学への行き帰りの道を歩かなければならなかった。なにより砲撃がこわかったが、ほかに方法はなかった。研究所の予算がほぼゼロにまで削られ、教職だけがおもな収入源であったからだ。

 あるとき、エリアヴァ研究所に電気がこない日があった。翌月にはおなじような日が増え、一九九三年になると電力の供給は完全にとまった。政府は研究所に無関心だった。家庭には少なくとも一日に数時間は電力の供給があったため、研究者は自宅の冷蔵庫にファージを詰めこんだ。その年のある晩、暖房も切れ、そしてそれっきり、その状態が何年もつづいた。

 ロシアは、暖房や電力以外にも打ち切ったものがあった。ビジネスのつながりを断ち切ったのである。何トンものファージの注文が、まったくはいらなくなり、高値を払っても、研究に不可欠な機械はモスクワから送られてこなくなった。打ちひしがれた研究所の幹部たち、ニーナの叔父テイミュラーチャニシヴィリ、そして数十年も研究所に献身してきたアミラン・メイパリアニは、ファージ試料室を活かしておくために、必要な研究者数名以外の職員は解雇した。給料は話にならない額にまで削られた。一九九〇年の最悪の日々、一ヵ月にアメリカでの五〇セントに等しい額しか、ニーナには収入がなかった。