腺ペストの患者の治療にファージを用いて成功

 一方、デレルはといえば、エジプトでは細菌感染症におそわれたメッカに向かう巡礼者の治療に、インドでは腺ペストやコビフの患者の治療にファージを用いて成功し、一九二八年、イェール大学の「ファージ学」教授に迎えられ、ファージ研究室を設立した。だが、あまりにもひんぱんに旅にでるため、同僚の反発を買い、デレルが職場にいない時間の給料をめぐって口論がはじまった。そして一九三三年の春、辞表を提出する事態に追い込まれた。するとゲオルゲーエリアヴァから、「トビリシに来ないか」と、また誘いがあった。こんどはデレルにも引き受ける決心がついた。ソ連政府からの正式な招待-新たにソ連ファージ研究所と呼ばれるようになった機関に迎えるにあたり、デレルと妻のために私邸、車、運転を用意するという保証付きがあり、話は成立した。ペリヤの残虐

 デレルに宛てた手紙のなかで、エリアヴアは周囲で高まりつつある政治的危機をあきらかにしたが、おそらく自分はそのことをすっかり忘れてしまったのだろう。宿敵ベリヤは、いまではグルジア共産党の第一書記であり、かつグルジア秘密警察長官となっていた。すでにベリヤは、のちに語り草となる、なみはずれた残忍ぶりの片鱗を見せはじめており、みずから囚人を拷問にかけたり、部下に命じて愛くるしい十代の少女を逮捕させ、自分の執務室で暴行をはたらいたりしていた。一九三〇年、「破壊者」である、つまり反党的な活動を見せる者であるという名目で、ベリヤはエリアヴアの逮捕を命じた。この微生物学者が自由を取りもどすには、中央政府からの圧力、それもおそらくスターリン自身からの圧力が必要たった。それでもエリアヅアは、音楽、文化、歴史、科学に造詣のないまったくの無骨者であると、公然とベリヤをあざわらった。あるときなど、共産党リーダーの面前で嘲笑したほどだった。そんなある日、エリアヴアはグルジアで屈指の医師として、地元の著名な共産党の役人の腕から採血するよう呼びだされ、党本部に到着したところ、そこで初めて当の役人がベリヤであると知らされた。エリアヴアが注射針を刺したとたん、ベリヤが冗談めかして言った。「あまりたくさん採りすぎるなよ」「なぜいけない?」と、エリアヴアはぴしりと言った。「きみは、だれからもそうしてるじゃないか!」これがどういう結果を招くか、わからない者はいなかった。

 一九三三年十月、デレルと妻はマルセイユから船で到着し、バトゥーミ港でエリアヴァの出迎えを受けた。最初の訪問で、デレルは寒天培地で培養する以上のことをした。エリアヅアとともにファージを使い、黄色ブドウ球菌による血液感染症で死にかけている患者を治療したのである。手元にある弱い薬ではまったく効果があがらなかったため、担当医師がファージを要望し、ふたりの微生物(ンターはためらうことなく要望に応じた。共産党政府は、ファージが実験上の治療にとどまるよう制限を設けていたのであるが。一九三四年四月にデレルと妻が西側にもどるころには、患者は回復していた。