地元トビリシにファージ研究所を設立

 第一次大戦の戦場では、機械化した兵器が数百万の兵士を掃討していたうえ、抗生物質が登場する前であったため、数百万人の兵士が感染症にかかり、戦場で死亡していた。そのため、赤痢菌と闘う可能性のある天然微生物があるという見解は、医学界を興奮させた。なにより驚かされたのは、「ファージはほかの細菌も殺すかもしれない」というデレルの自信たっぷりの推測だった。「ファージは病原体に対して身体全体を防衛する機能である」とデレルはすぐに仮説を立てていた。

 新聞は喝采を送り、四十四歳のデレルを国際的な有名人にしたてあげ、彼の発見に刺激を受けたファージに関する数千もの論文が紙テープのように生まれ、影響力のある同僚たちがわれ先にあらさがしをはじめた。かれらは手はじめに、ファージが身体の免疫システムの構成要素である、というデレルの説を批判した。パスツール研究所の研究者たちは、文句をつけた。「それでは、体内の毒素を白血球が破壊するという、メチニコフの聡明なる食細胞説はいったいどうなるのだ? それにエーミルーフオン・ベーリグが、ジフテリアと闘うために血液に抗毒素を用いたのは?」同時に「ファージがウイルスである」というデレルの主張を、かれらは細かく追究した。「どうしてそんなことがわかるのか? なぜ、その目に見えない微生物が酵素でないとわかるのか?」

 デレルは、包囲され、守勢にまわり、研究所を去った。そしてフランスの辺地に行き、「世間の見方もいまに変わる」とつぶやさながらひとりでファージの実験に没頭した。だがそれは、彼が期待するより早く起こった。一九二〇年、デレルと同様にひたむきに研究に熱中していた、グルジアのとある微生物(ンターが、パスツール研究所で一連の実験をおこない、抗菌治療にファージが利用できることを立証したのである。この発見と同時に、ファージを探求するうえで、彼はデレルの知的なこころの友となった。そして、地元トビリシにファージ研究所を設立する、という夢をもつパートナーとなったのである