パスツール研究所

 バックが感染した細菌に、デレルは球桿菌と名づけた。そしてこの菌についてもっと調べようと、デレルは家族とともにパリに移住し、パスツール研究所で無給の職を得た。給料がもらえなかったのは、デレルが正式な教育を受けていないことを、パスツール研究所の上層部に認めたからだろう。それでもデレルの研究に興味をもった所長のエミールールーは、アルゼンチン、アルジェ、トルコ、チュニジアと、世界各地にデレルを数年にわたって赴任させた。デレルは赴任先で、バックに感染する球桿菌をつぎからつぎへと試していった。彼は、このやり方で大きな成果があがったと主張したが、あるアルゼンチンの審査団は彼の球桿菌を試験し、その結果は「完全に陰性だった」と表明した。パスツール研究所のチュニジア支部の同僚たちも、デレルの努力は失敗に終わったと断言した。デレルは、「球桿菌が失敗したのは、メキシコで最初に発見した目に見えない微生物が、球桿菌がバックを殺す前に球桿菌を殺してしまうせいかもしれない」と考えはしめた。 こうした目に見えない微生物は、ヒトの体内の細菌も殺せるかもしれないと、デレルが深く考察していたころは、まさに第一次世界大戦のさなかだった。デレルは、あいかわらず無給のボランティアとしてパスツール研究所にもどり、連合軍のために細菌ワクチンの用意をはじめ、赤痢にかかった兵士から検出した赤痢菌の微生物学分析をおこなった。一九一五年、六月二十日から八月十五日のおいたに、一〇人の歩兵とふたりの市民が、出血性赤痢菌株に感染し、症状が垂かったため、担当医師はこの件を正式に報告した。その志賀型赤痢菌は、デレルがそれまでに見たどんな菌株とも異なったため、彼はフラスコに患者の糞便のサンプルを集め、定期的に培養を検査した。ある朝、デレルは、前の晩は濁っていたフラスコの中身が、一晩で透明になったことに気づいた。フラスコの底には、白い小片の小さな膜があり、それが細菌の残骸であることがわかった。フラスコのなかのなにかが、赤痢菌を殺したのである。それはバックの球桿菌を殺したものと似ているにちがいない、とデレルは考えた。

 なにが培養菌を殺したにせよ、それはフラスコのなかにたまっている糞便の持ち主であった兵士の腸内の細菌も殺したはずだと、デレルは直観で理解した。デレルがその兵士をさがしあてだところ、たしかに彼の熱は下がり、症状は軽くなっていた。そこでデレルはフラスコにもどり、細菌が通り抜けることができないほどきめの細かいフィルターで、フラスコの中身を濾過した。濾過した残留物の一滴が、赤痢菌がはいって濁っている別のフラスコの中身を透明にすると、デレルは興奮した。二本めのフラスコの中身を濾過し、それが三本めの濁ったフラスコを透明にするのを観察すると、デレルには、例の微生物が存在し、たしかに細菌を殺すという証拠を手にしたことがわかった。一九一七年、デレルが記した簡潔なニページの論文は、科学界を驚愕させた。「わたしは赤痢菌に拮抗する特徴のある、目に見えない微生物を分離した」と述べたこの論文で、デレルはその微生物を「ファージ」と呼び、その呼び名はいまでも使われている。